住宅事情激変の予兆
2024年8月26日
スマホが滅ぼしたもの
2024年8月21日
また買ってしまった・・
2024年8月19日
ドン・キホーテの躍進
2024年8月19日
近江屋、伊勢屋、三河屋・・・・
・2024年8月 (4)
・2024年5月 (1)
・2024年4月 (1)
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・2019年7月 (2)
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・2018年9月 (2)
・2018年6月 (1)
・2018年5月 (3)
・2018年4月 (3)
・2018年3月 (1)
・2018年2月 (2)
・2018年1月 (1)
・2017年11月 (3)
・2017年10月 (11)
・2015年9月 (1)
住宅事情激変の予兆
2024年10月23日
2025年、日本は大きな節目を迎える。
戦後のベビーブーム世代、団塊の世代がほぼ全員後期高齢者の仲間入りをするからだ。後期高齢者になるとそれまでと比べて健康を維持することが難しくなり行動範囲が狭くなることは間違いない。後期高齢者の10人に1人は高齢者施設などに既に入所あるいは入所待ちの状態でもある。前期高齢者のころは定年後、退職金も入り、子育ても終わり、住宅ローンも完済して旅行や趣味などに費やす金銭的、精神的そして体力的ゆとりもあった人たちも、次第に家に籠りがちになってくる。つまり消費人口の減少をもたらすことを意味する。
私はこの世代がまだ40代のころから30年以上にわたり継続観察してきた。
60年代から70年代にかけて高度成長で人手不足という時代背景もあり、東京など大都市へ地方から一斉に若年労働力の移動がおきたがその中心がこの団塊の世代だった。全共闘ブーム、結婚ブーム、第二次ベビーブームと常に社会現象の中心にあった彼らは、東京都内の下宿や賃貸アパートから郊外の団地、そしてマイホームへと住宅のニーズを移してゆく。
当時の評論家大宅壮一は団塊世代の住宅事情を「方荘棟字」という四字熟語風に表現した。
すなわち、学生時代は下宿で「...様方」の三畳一間、就職すると「あけぼの荘」「富士見荘」と言った木賃アパート、結婚して子供ができると2DKの団地に入ろうと高い競争率に挑戦する。そしてようやく手にしたマイホームは超郊外の農地の中で住所は「字」だった、というわけだ。
首都圏においてその「字」を供給したエリアは国道16号沿線であった。山手線のターミナル駅まで電車で小一時間、京浜急行や東海道線で言えば横浜周辺、小田急線なら町田や相模大野、京王線や中央線なら八王子、西武線や東武線なら川越、京浜東北線なら大宮、常磐線なら柏、総武線なら千葉という具合に首都圏30キロから40キロ圏を環状する国道16号とぶつかるあたりの駅周辺にニュータウンが形成された。
現在ならもっと都心から遠いところまでマンションがならび、駅近くに若いサラリーマンが戸建て住宅を一次取得するのは至難の業であるが、団塊の世代がバブル期以前に買い求めたこのエリアのマイホームはおおむね土地付き一戸建てだった。80年代一世を風靡したテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」の舞台は、まさに田園都市沿線のこのエリアが舞台で、ニューファミリーは田舎に暮らす親の世代とは別居し、これまでの日本の家庭とは異なる新しい価値観で生活を楽しんだ。
それから40年近くが過ぎた。
かつてはニューファミリー消費のメッカとして多くの商業施設が立ち並んだ国道16号エリアは、いま全国でも有数の後期高齢者の急増エリアとなった。地方出身の団塊の世代が後期高齢者、そこで生まれた団塊ジュニアも中高年だ。首都圏に住む団塊の世代は現在でも約155万人、中でも国道16号が通る神奈川、千葉、埼玉3県が目立つ。団塊の世代の持ち家が土地付き戸建てである場合が多かったので、そこに二世帯住宅を建て直したという例も多いが、団塊ジュニアが別居して独居老人世帯も目立つ。あと10年もすれば、このエリアで家の相続問題が発生することになる。
団塊ジュニアは親の世代ほど子供の数が多くはなく、しかも首都圏どうしあるいは近畿圏どうしの結婚例が多い。団塊の世代の時は東北や九州から首都圏に出てきた人が結婚するようにお互いの郷里が遠距離という場合も多かったものだ。
その点団塊ジュニアは結婚した相手も首都圏に持ち家があるケースもあるから、何人もの子供が一軒の親の家の相続権を争うということは少ないとみられる。
例えば団塊ジュニアの長男が親の家を相続したとして、団塊ジュニアがそこに住み続けるのかは疑問だ。団塊ジュニアもそろそろ定年後のことを考える。リモートワークの時代でもあり、親から引き継いだ土地付き一戸建てを売却したカネで、もっと都心のタワマンに移ることもあるだろうし、逆にもっと東京から離れた超郊外に移住すれば、家の売却金を相当残して老後資金を確保したうえもっと広い家に住み替えることも可能なわけだ。
いずれにしてもこれから十年、首都圏の住宅事情は40年に一度の大激変を迎えることになる。
スマホが滅ぼしたもの
2024年8月26日
「アート引っ越しセンター」の社名は「アート」だと電話帳のトップに名前が掲載されるという計算から生まれた。昔は引っ越しを考えるとまず電話帳で業者をさがすものだったのだ。
電話帳は生活に欠かせないツールだった。その電話帳がいよいよ消えるという。
電話帳だけではない。「分厚いもの」は軒並み時代遅れになりつつある。
広辞苑などの大型の辞書、百科事典、イミダス・知恵蔵・現代用語の基礎知識・・・。
会社四季報に時刻表までもがどんどん消えつつある。
日本で本格的な時刻表が初めて発売されたのは、明治27年(1894年)の10月5日のことである。「汽車、汽船旅行案内」という名前がついていた。小説や紀行文など読み物のページもあり、旅行ガイドブックを兼ねたものだった。
私は中学生のころから時刻表を愛読していた。当時はお金がないから時刻表の中で架空の旅を楽しんでいた。やがて国鉄全線踏破を目指すようになると,周遊券とそれで乗れる夜行の急行で全国を回った。夜、下りの列車に乗ると反対の上りのページの時刻表を開き、何時何分にどのあたりですれ違うかを予想して一晩中起きていたものだった。
時代は下り、新幹線中心のダイヤではあまりにも単純で時刻表をめくる楽しみも失せた。昔の時刻表は欄外に該当する路線で販売している駅弁の紹介などもあったが、いまは地方の駅で駅弁を販売しているところも少ないし、車内販売さえなくなりつつある。少し大きめの駅でも入っているのはコンビニ、これでは地方色も薄れる一方だ。
時刻表がなくてもスマホで検索できる時代、これではもはや趣味とは言えなくなってしまった。
また買ってしまった・・
2024年8月21日
前橋にはさまざまな小売業が進出しているため、欲しいものが最安値で買えることに満足している。生鮮三品はじめ家電、家庭用品、家具などあらゆるものがそれぞれの大型量販店で手に入るが、もう一つ私が満足しているのがシャトレーゼ、市内に三店舗ある。
山梨から全国に展開する菓子のチェーンだ。山梨の農産物とアルプスの天然水をベースに地方都市発ならではの低価格商品で人気を集める。オリジナリティあふれる和洋菓子を豊富に用意しているが、中でも人気があるのがアイスクリームや氷菓子で、夏場は商品が払底するほどの売れ行きである。
シャトレーゼは私が主催する「GS世代研究会」のメンバー企業でもあり、本社や工場の見学などもしてきて将来性を確信していたが、実は創業者で会長の齊藤寛さんが先日90歳で亡くなった。現在の山梨県甲州市勝沼町出身の齊藤さんは地元の高校卒業後、20歳だった1954年に甲府市内で焼き菓子店を創業して菓子店の経営を始め、1967年にシャトレーゼを設立して社長に就任した。 洋菓子やアイスクリームなど素材にこだわったものを低価格で販売することで今年1月には店舗が国内外で1000店にまで拡大するなど日本を代表する菓子メーカーに成長させた。
同様の菓子チェーンとして老舗の不二家があるが、銀座から創業した不二家が銀座の価格を全国展開したのに対し、シャトレーゼは地方都市の価格を全国展開しているあたりに経営発想の違いがあると考える。
ドン・キホーテの躍進
2024年8月19日
草創期からマークはしていたが、まさかここまで来るとは正直驚いている。ある意味ユニクロ以上の急成長と言える。「ドン・キホーテ」のホールディング会社、PPIH(パンパシフィックホールディングス)は今や年商2兆円を超える日本有数の小売り業になった。日本はもとよりアジア6か国・地域に45店舗を持ち、ホテルや不動産業などを多角的に経営する企業体にのしあがった。創業者安田隆夫氏が自ら起業、西荻窪駅近くの泥棒市場という名のディスカウントストア(まあ実態は闇市だった)から身を起こし、長崎屋やアピタ(ユニー)といったスーパーを傘下に収め、気が付けば海外にまで展開するビッグビジネスになっていた。
「ドン・キホーテ」の品ぞろえはここにきて食品、なかでも生鮮品の取り扱いが増えている。これはスーパーを買収したことによるメリットだ。とくにシンガポールの店では食品の売り上げ割合が9割を占める。日本の菓子や調味料なども積極的に扱い、日本に行ったことがある人の継続購買を促しているし、「いつか日本に行ったらドンキに寄ってほしい」というメッセージにもなっている。実際シンガポールでの「ドン・キホーテ」の人気は絶大だ。進出から5年足らずで12店舗まで拡大、在留日本人のみならず現地のシンガポール人の間でも歓迎され、刺し身や寿司、そして日本の果物などがよく売れているという。海外の「ドン・キホーテ」の特徴は現地化を徹底していることだ。従業員のほとんどは地元の人で店長以下仕入れから陳列、価格設定までローカル性を重視する。創業者の安田隆夫氏が2015年にシンガポールに移住した際に、現地の日本食品の高さに驚いたことから、この方針を徹底したという。2030年までに海外の売り上げを1兆円まで増やす目標を掲げている。
「ドン・キホーテ」の販売商品は食品以外にも家電から衣類、ドラッグ用品など様々なジャンルに及ぶ、独特の目立ち、長いフレーズのPOPで客の興味をそそる販売手法はあらゆる商品を雑貨的に扱うところに特徴がある。整然としていないことこそオリジナリティある販売手法である、ということだ。百貨店やスーパーと言ったこれまでのビジネスモデルとは対極にある「混沌の泉から湧き出てくるような商品構成」を魅力に変えたことが成功の秘密だろう。
日本人だけでなく外国人からの支持を受けて、日本最大の小売業グループになることも夢ではなくなってきた。
近江屋、伊勢屋、三河屋・・・・
2024年8月19日
世界最古の民間企業は西暦578年創業の大阪の会社、金剛組と言われている。
実に創業1500年近い、寺社建築の実績を誇るこの会社は奈良時代よりも前の飛鳥時代の創業だ。
和菓子の「とらや」は室町時代後期の京都で創業、後陽成天皇の御在位中(1586〜1611)から御所の御用を勤めてきた。明治2年(1869)東京遷都にともない、天皇にお供して京都の店はそのままに東京に移り現在に至る。
日本の企業の歴史は他国を圧倒しており、100年以上の社歴を持つ会社が数多ある。それほど大きな企業でなくても江戸時代以来の伝統を持つ事例は多い。
東京に多い三河屋、駿河屋という屋号の店は徳川とともに今の静岡県や愛知県にルーツを持つ店が江戸に移転し代々引き継がれた由来だろう。
あるいは近江屋は近江商人、伊勢屋は伊勢商人を系譜にしている可能性が大きい。
近江の地は東海道と北國街道が交差し情報と物流の集積地だった。丸紅や伊藤忠、野村證券に高島屋、ふとんの西川などはこの地を起源とする。伊勢もお伊勢参りの参道で人の行き交う地だ。江戸で開花した三井高利から始まる三井グループ、国分などで知られる。ちなみにイオンの起源である岡田屋呉服店はもとをたどれば近江商人だが、その後伊勢街道沿いの四日市に移っている。
地域に根差し、情報のアンテナを張り、そして日本国内はもとより世界へ飛躍していった伝統企業、この日本の企業風土が今後どう変わってゆくか興味深い。
「GS世代研究会」会員企業白洋舎からの提案です
2024年5月 7日
事業統括本部で部長をしております武田順です。皆様には大変お世話になっております。
さて当社では食品等の工場やサービス業で着用されるユニフォーム事業を全国で展開しています。自宅に持ち帰り洗濯などをした場合、衛生基準が満たされないケースもあります。
そこで当社では必要枚数のユニフォームを当社が負担・購入し皆様にレンタルする方式を採用しています。これによりHACCPに対応する安全・衛生なユニフォームをご提供させていただけます。
クリーニング工場もISO22000を取得するなど自信を持っております。
また費用も、同業他社様と比べても大きな差はないはずで、是非一度お見積りを取らせていただければ幸いです。協力工場がありほぼ全国でご要望に応じられます。
詳しくは貼付チラシをご覧の上ご連絡賜りたくお願い申し上げます。
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株式会社白洋舍
事 業 統 括 本 部 武 田 順
〒146-0092 東京都大田区下丸子2-11-8
TEL:03-5732-5101 FAX:03-5732-5153
e-mail: j-takeda@hakuyosha.co.jp
4月18日 「GS世代研究会」の誕生日
2024年4月21日
2011年4月18日。
東日本大震災からおよそ一か月後、原発事故、計画停電といった混乱のなかで
「GS世代研究会」が発足した。22の自治体と企業が東京六本木ヒルズのハリウッド化粧品の会議室に集結した。
「GS世代」とは私がその前年に出版した「『GS世代』攻略術」という本で使った造語でゴールデンシクスティーズ、すなわち「黄金の60代」のことである。
今から13年前の当時戦後のベビーブーム世代は続々定年を迎えていた。これまでは仕事一途だった人も子育ても終わり、退職金をもらい、何よりこれからは十分な時間があるので新たな消費行動に出る、この「黄金の60代」を狙うビジネスを考えよう、そしてやがて彼らが70代になり、消費が衰えてくるころ、日本経済は縮小に向かう、その時に備えよう、と言うのが「GS世代研究会」の発足の趣旨だった。
その後賛同するメンバーは大きく増え400を超える自治体、大企業、中小企業が集まる組織へと発展した。シンポジウムやテーマ別の研究会を開催する傍ら、シニア向けイベントを開発したり、中高年富裕層向けの通販などの試みも行った。
残念ながら全国的に広がったウォーキングイベント「歩き愛です(あるきめです)」はコロナで開催が難しくなったり、戸別訪問してカタログをわたす販売も三密を避ける時流では継続が難しくなるなど大きな活動は途絶えてしまった。
現在は「GS世代研究会」の事業会社「グッドセレクト」(これもGSが略称)が、全国の会員企業や自治体の商品を東京の百貨店や大規模な道の駅に紹介して販路を広げる取り組みを継続している。
「GS世代研究会」発足から13年の誕生日を迎えた。
この間「黄金の60代」は70代になった。戦後のベビーブーム世代はほぼすべて後期高齢者である。人口減少以上に後期高齢者の増加により消費市場は大きく縮小しつつある。しかしながら日本全体で大きな資産を持つのはこの70代以上であることも事実、おそらくあと10年すると、今度は団塊ジュニア層の「相続需要」が発生する。
こうした消費スタイルの変化についての研究はいまなお課題である。
まだ「GS世代研究会」の看板を下ろすわけにはいかない。
2024年を読み解くキーワード
2023年12月29日
毎年恒例の「今年のキーワード」、一年前「2023年は、あいうえお」と予想した。
「あ」は安全、「い」はインフレ」、「う」は海、「え」は円安、「お」はオミクロンだった。
ウクライナに続き中東でも戦闘が始まり、世界大戦の可能性さえ危惧される。日本の安全が保てるかますます不安が募る。物価高も二年目、輸入物価高騰、人件費上昇で国民生活は危機に瀕している。サンマ、イカなどの不漁は深刻、養殖魚も飼料代などの値上がりで増産は難しい。原発処理水問題というあらたな「海」の問題も加わった。1年前150円となった対ドルレートは一度130円台になったがその後また150円へと逆戻り、やはり円安は大きなテーマとなった。そして年の途中で5類移行となった新型コロナウィルスだが、夏には再び感染拡大しまだまだ過去形で論ずるには早い。補助金はなくなり、無担保無利子融資も返済する段階となって倒産件数も急増、コロナの傷はまだ癒えたとは言い難い。
さて、それでは今度は新しい年、2024年の経済を占うポイントである。
ズバリ「2024年は一、二、三、四、五」と考えた。
「一」は「コロナリバウンド一巡」。
昨年の日本経済は全体としてはおおむね良好だった。なんといってもコロナによる経済の低迷から脱した「リバウンド消費」が大きく寄与、企業業績が前年度比で伸びた例が目立った。しかし2024年はそれも一巡、次第に停滞色が強まると予想する。
「二」は「トランプ二回目の当選」。
2024年はロシア大統領選挙、台湾総統選挙、そして日本でも総選挙が予想される。選挙の年最大の注目は何といってもアメリカ大統領選挙だろう。本来なら現職が優勢のはずだが、バイデン大統領の高齢問題や、インフレによる支持率の低下もあってトランプ氏の返り咲きの可能性も大きい。もしトランプ氏が再選されれば、NATO脱退、ウクライナ支援打ち切りなど大きな政策変更も予想される。三期目は憲法上ありえないだけに、彼の思い切った施策が世界を混乱に陥れるのではないかという不安が広がる。
「三」はウクライナ・中東に続く三か所目の紛争拡大だ。
イランや台湾、あるいは、南シナ海、朝鮮半島と世界の紛争の火種は尽きない。背景に中国、ロシア、北朝鮮という専制国家の拡大志向があるだけに、トランプ政権となった場合アメリカの孤立主義が顕在化することにより世界各地で次なる紛争が引き起こされる心配がある。
「四」は株価四万円の可能性だ。
日経平均株価が1989年の38915円の最高値をいつ上回るかが大きな焦点だが、ひょっとしたら2024年はそれに挑戦するかもしれないと予想する。もっとも日経平均株価とは主要銘柄225種の株価の平均値だが、そもそもこの225の銘柄自体が1989年当時とは様変わりしているからあまり連続性はない。とはいえ最高値を更新すれば、やはり大きな節目となることは間違いない。アメリカやヨーロッパ、さらには中国の景気が低迷し、上がり続けてきた金利が下がる期待がもたれてくる。不況下の株高が起きる下地は整いつつある。また中国の経済成長が見込めなくなり、アジア投資のベクトルが日本に向かう可能性があり、外国人投資家の日本株買い意欲が高まれば、日経平均株価は意外高となる可能性がある。
「五」はパリ五輪である。
2024年7月26日からパリで開かれるオリンピックは、前回の東京五輪が無観客と言うまさかの開催だっただけに、今度の五輪がコロナ禍や国際紛争を乗り越えて、無事成功を収められるかが注目される。
というわけで、2024年の経済を占うポイントは、ズバリ「一、二、三、四、五」という五つの数字である。
黒川温泉に見る再生への道
2023年12月 7日
いまから50年余り前の1970年代、当時中学生だった私は佐賀県に住む叔父叔母に連れられて阿蘇を旅行、予約もしていなかったさびれた温泉に一泊した。
「ここはなんもなかね」
叔父の一言を今でも覚えている。それが黒川温泉との最初の出会いだった。
黒川温泉は現在、日帰り客が年間100万人、宿泊客は30万人、年間を通じて全旅館の平均稼働率は概ね40~50%で小規模旅館の全国平均25%を大きく超える。一人当たりの宿泊単価は小規模旅館平均の15,000円に対し、12,000円から20,000円と値ごろ感があり、人気の湯宿は予約が取れないこともある。
黒川温泉は標高700mの熊本県阿蘇郡南小国町、田の原川渓谷に位置する阿蘇温泉郷の一つで、熊本からもまた反対の別府かも70キロから80キロ離れた九州の中央部にある。大分県の湯布院温泉からも牧の戸峠を越えて1時間程の山間部とあって、交通の便は決して良いとはいえない。
黒川温泉は戦前までは湯治客主体の療養温泉地だった。1964年の九州横断道路(やまなみハイウェイ)の全面開通で旅館の木造モルタルへの建て替えが行われ温泉観光旅館街に転換したが、ハイウェイ効果は短かった。阿蘇・杖立、別府などの大型旅館を抱える温泉地に客を奪われ、規模や利便性に劣る黒川温泉は長い間、低落状態が続く。
80年代に入り、黒川温泉旅館組合青年部の改革運動が始まる。
まず乱立する看板200本をすべて撤去し、統一共同看板を設置した。当時20代の経営者だった後藤哲也さんは魅力ある風呂をつくりたいと3年がかりでノミ1本で洞窟を掘り風呂にした。また自分の旅館周辺にあった雑木を植栽し、野趣に富む露天風呂もつくった。これに影響され他の旅館でも彼に指導を受けて露天風呂をつくったところ、女性客が徐々に増えてゆく。後藤さんは建物周辺にも裏山の雑木を植え、情緒ある「絵になる風景」づくりに励み、風呂づくりや植栽の剪定の指導も行い自分の旅館だけでなく旅館街全体の繁栄のために駆けずり回った。
さらに青年部は、敷地の制約からどうしても露天風呂がつくれない2軒の湯宿を救うため、1983年に黒川の全ての露天風呂が利用できる入湯手形を発案した。日帰り客はすべての旅館が500円で入浴できるが、1,200円の入湯手形なら3枚のシールが貼ってあり、3カ所の露天風呂が利用できる。評判の良い旅館の露店風呂が低料金で複数楽しめるとあって、入湯手形の発行は1986年から通算250万枚、利用されたシールは600万枚に達している。シール1枚が400円に相当し、旅館が250円、組合が150円を受け取るもので、宿の収益と組合運営の安定財源として大きく貢献してきた。組合事業費に占める入湯手形の収入7割を超え黒川温泉の活性化に寄与している。
露天風呂と入湯手形の登場で黒川温泉は一つの運命共同体として存亡の危機を脱出した。1994年に青年部により制定された活路開拓ビジョンが「黒川温泉一旅館」である。黒川温泉は一軒の繁盛旅館を生むよりも「街全体が一つの宿、通りは廊下、旅館は客室」と見立て、共に繁栄していこうという独自の理念を定着させた。そして、黒川ブランドを確立させ、日本を代表する温泉地として全国、さらには海外からの集客も可能にした。
黒川温泉では全体の繁栄があってこそ、個が生きるという考えで、個々の湯宿は全体の一部として、勝手な行動や手抜きは許されない。営業面では料金体系の明確化、つづいて個性とサービスの質を高め、いかに魅力を発揮できるかを考えた。その一環として各旅館は露天風呂以外に家族風呂などの温泉施設の充実を競い、日帰り・宿泊客の多様な要望に応えて、全体が高いレベルを維持してきた。
2002年には黒川温泉自治会が主体となり「街づくり協定」を締結した。ふるさとの自然と暮らしを守り、「黒川らしさ」を守り、創り、育てることが骨子だ、観光地として人気が高まれば、多くの観光客が押し寄せることになるが「黒川らしさ」の理念の下で、あえて団体客の受け入れを避け、優良な個人客にターゲットを絞り、大手資本の参入やマス化することによるコマーシャリズムの台頭を抑えてきた。大型バスは街なかに入れない。商店の数も限り黒川オリジナルの土産品にこだわるのもその表れである。また環境保護の活動として旅館で使用するシャンプー・石鹸類は河川の水質を守るため、水中の微生物により分解する天然素材を使用し他の製品の持込み・使用を禁止している。
コロナの低迷はあったが、団体客中心ではない黒川温泉の影響な最小限に抑えられた。
もみじなどの紅葉美しい温泉郷の美が、実は地元の人々の努力で作られてきたものであることを観光客は気がつかない。
コロナの間に
2023年6月20日
修学旅行に外国人旅行、それに個人や仲間のグループとみられる旅行も見かけるようになったが、コロナ前と比べて減ったな、と感じるのがいわゆる「旗降りツアー」と呼ばれる募集団体ツアーである。
かつては東京駅八重洲口や東京都庁地下駐車場など集合ポイントは毎朝各種旗の下の集まる胸にバッジを付けたシニアでぎっしり埋まっていた。
コロナによるライフスタイルの変化が旅に対する考え方を変えたということもあるのかもしれない。
私は別の仮説を立てている。
それは戦後のベビーブーム世代がコロナの期間にほとんど全員後期高齢者年齢に達して、シニア向けのレジャーのボリュームが盛りを過ぎたのではないかということだ。
私が「GS世代」という造語を本で発表したのは2010年、「GS世代」とは黄金の60代、ゴールデンシクスティーズということだ。団塊の世代が60代に入り、リタイアしてようやく自分の時間と退職金を得たことから向こう十年あまりは、旅行や趣味などへの消費が上向くだろう、しかし彼らが75歳になり後期高齢者となる2025年くらいには、この消費は峠を越える、と予想した。
後期高齢者の10人に1人は老人施設に入るし、元気な人も行動範囲が狭くなり、一度転んだりするとたちまち家に引きこもりがちになってしまう。そうなれば衣料品や宝飾品などの需要も落ち込んでゆく。
「GS世代」をゴールデンセブンティーズにさせるための取り組みが必要であると、「GS世代研究会」を組織したのが2011年で、もうそれから12年がたつ。
そこにコロナが重なった。
「GS世代」は巣ごもりを余儀なくされ、後期高齢者になる前から早くも外出習慣がなくなってしまった。いまさらポストコロナと言われても、もう気分が萎えていないだろうか。
とくにコロナの期間旅行会社のツアー広告が皆無となり、それらを見る習慣も消えた。またシニア層で最も関心が高かったのがクルーズ船旅行であったのに、コロナ最初の悲劇があの「ダイヤモンドプリンセス号」で起こったことがトラウマになってしまったようで、クルーズ人気は完全に消えてしまった。
こう考えてくると、シニアのグループツアーに代表される「アクティブシニア向け需要」を今後どう切り開くかはかなり難しい状況にあると見たほうが良いのではないだろうか。