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黒川温泉に見る再生への道

2023年12月 7日


いまから50年余り前の1970年代、当時中学生だった私は佐賀県に住む叔父叔母に連れられて阿蘇を旅行、予約もしていなかったさびれた温泉に一泊した。


「ここはなんもなかね」


叔父の一言を今でも覚えている。それが黒川温泉との最初の出会いだった。


黒川温泉は現在、日帰り客が年間100万人、宿泊客は30万人、年間を通じて全旅館の平均稼働率は概ね40~50%で小規模旅館の全国平均25%を大きく超える。一人当たりの宿泊単価は小規模旅館平均の15,000円に対し、12,000円から20,000円と値ごろ感があり、人気の湯宿は予約が取れないこともある。


黒川温泉は標高700mの熊本県阿蘇郡南小国町、田の原川渓谷に位置する阿蘇温泉郷の一つで、熊本からもまた反対の別府かも70キロから80キロ離れた九州の中央部にある。大分県の湯布院温泉からも牧の戸峠を越えて1時間程の山間部とあって、交通の便は決して良いとはいえない。
 黒川温泉は戦前までは湯治客主体の療養温泉地だった。1964年の九州横断道路(やまなみハイウェイ)の全面開通で旅館の木造モルタルへの建て替えが行われ温泉観光旅館街に転換したが、ハイウェイ効果は短かった。阿蘇・杖立、別府などの大型旅館を抱える温泉地に客を奪われ、規模や利便性に劣る黒川温泉は長い間、低落状態が続く。


 


80年代に入り、黒川温泉旅館組合青年部の改革運動が始まる。


まず乱立する看板200本をすべて撤去し、統一共同看板を設置した。当時20代の経営者だった後藤哲也さんは魅力ある風呂をつくりたいと3年がかりでノミ1本で洞窟を掘り風呂にした。また自分の旅館周辺にあった雑木を植栽し、野趣に富む露天風呂もつくった。これに影響され他の旅館でも彼に指導を受けて露天風呂をつくったところ、女性客が徐々に増えてゆく。後藤さんは建物周辺にも裏山の雑木を植え、情緒ある「絵になる風景」づくりに励み、風呂づくりや植栽の剪定の指導も行い自分の旅館だけでなく旅館街全体の繁栄のために駆けずり回った。


さらに青年部は、敷地の制約からどうしても露天風呂がつくれない2軒の湯宿を救うため、1983年に黒川の全ての露天風呂が利用できる入湯手形を発案した。日帰り客はすべての旅館が500円で入浴できるが、1,200円の入湯手形なら3枚のシールが貼ってあり、3カ所の露天風呂が利用できる。評判の良い旅館の露店風呂が低料金で複数楽しめるとあって、入湯手形の発行は1986年から通算250万枚、利用されたシールは600万枚に達している。シール1枚が400円に相当し、旅館が250円、組合が150円を受け取るもので、宿の収益と組合運営の安定財源として大きく貢献してきた。組合事業費に占める入湯手形の収入7割を超え黒川温泉の活性化に寄与している。


露天風呂と入湯手形の登場で黒川温泉は一つの運命共同体として存亡の危機を脱出した。1994年に青年部により制定された活路開拓ビジョンが「黒川温泉一旅館」である。黒川温泉は一軒の繁盛旅館を生むよりも「街全体が一つの宿、通りは廊下、旅館は客室」と見立て、共に繁栄していこうという独自の理念を定着させた。そして、黒川ブランドを確立させ、日本を代表する温泉地として全国、さらには海外からの集客も可能にした。
 黒川温泉では全体の繁栄があってこそ、個が生きるという考えで、個々の湯宿は全体の一部として、勝手な行動や手抜きは許されない。営業面では料金体系の明確化、つづいて個性とサービスの質を高め、いかに魅力を発揮できるかを考えた。その一環として各旅館は露天風呂以外に家族風呂などの温泉施設の充実を競い、日帰り・宿泊客の多様な要望に応えて、全体が高いレベルを維持してきた。


2002年には黒川温泉自治会が主体となり「街づくり協定」を締結した。ふるさとの自然と暮らしを守り、「黒川らしさ」を守り、創り、育てることが骨子だ、観光地として人気が高まれば、多くの観光客が押し寄せることになるが「黒川らしさ」の理念の下で、あえて団体客の受け入れを避け、優良な個人客にターゲットを絞り、大手資本の参入やマス化することによるコマーシャリズムの台頭を抑えてきた。大型バスは街なかに入れない。商店の数も限り黒川オリジナルの土産品にこだわるのもその表れである。また環境保護の活動として旅館で使用するシャンプー・石鹸類は河川の水質を守るため、水中の微生物により分解する天然素材を使用し他の製品の持込み・使用を禁止している。


 コロナの低迷はあったが、団体客中心ではない黒川温泉の影響な最小限に抑えられた。


もみじなどの紅葉美しい温泉郷の美が、実は地元の人々の努力で作られてきたものであることを観光客は気がつかない。